江東区政治史の主要プレーヤーだった柿沢家・木村家・山﨑家について(1)

今春まで江東区議会議員を務め、また話題になっている江東区3家のうちのひとつに議員秘書として仕えた者として有権者の皆さん、また興味関心のある皆さんに江東区政治史を何回かに分けてお伝えできればと思います。(関係者から訂正依頼等がありました。私は当然ながら今回の一連の事件に関係しておりませんし、また現在は一民間人であり、この件に関しての一切取材をお断りします)

まず主要登場人物です。

目次

江東区政治史のプレーヤーについて

柿沢家とは父・柿沢弘治元外相と子・柿沢未途衆議院議員、木村家とは父・木村勉元衆議院議員と子・木村弥生区長、山﨑家とは父・山﨑孝明前区長と山﨑一輝前都議です。これらの人物を軸に時系列に江東区政治史を紐解いていきます。ちなみに著者は2005年1月から2008年11月まで登場人物の一人である木村勉氏の秘書を務め、この一族達の因縁と対立を現場で見てきました(遠巻きに影響を受けてきたとも言えます)ので、どこまで書いていいのか悩みながら、しかし歴史に立ち会ったひとりとしてペンを進めます。

江東区における衆議院議員選挙区は中選挙区時代は旧東京6区、現在の小選挙区は東京15区であり、東京15区は全国的にも珍しく選挙区内の区市町村が1つだけで構成されています。

柿沢弘治氏について

先ずは柿沢弘治氏ですが、大蔵省退官後に1977年参議院議員選挙に新自由クラブ公認で東京都選挙区より出馬当選、そして1980年衆議院議員選挙に新自由クラブ公認で旧東京6区より鞍替え出馬し、当選を果たします。しかし新自由クラブを離党、1983年に自民党へ入党します。派閥は中曽根派に所属し、後の派閥後継者である渡辺美智雄氏の側近と言われるようになります。竹下派経世会の分裂に端を発して自民党が下野した55年体制の崩壊後、細川護熙内閣が成立しますが1年足らずで崩壊後、後継に新生党代表幹事の小沢一郎氏は自民党の渡辺美智雄氏の擁立を画策、その先兵隊として柿沢氏は自民党を離党しますが渡辺氏が自民離党を決断しなかったので自由党を結成、党首となります。細川内閣の後継として成立した羽田孜内閣で柿沢氏は外相に就任、しかし短命で内閣が崩壊してしまいます。自由党は自民党を離脱した海部俊樹氏を代表とする自由改革連合に合流し柿沢氏も参加、この後に自由改革連合は新進党に合流していくのですが、その時に柿沢氏は合流せず離脱、徳田虎雄氏率いる自由連合に入党し、その後に離党し再度自民党へ復党していきます。そして復党後は中曽根派から分派した山﨑拓派に入会しています。そして1999年の東京都知事選挙に自民党から出馬を打診されて承諾しますが自民党は約束を反故にして国連事務次長であった明石康氏を擁立、それに反発して都知事選に立候補を強行し自民党から除名処分を受けます。しかも選挙結果は石原慎太郎氏が当選、落選することとなります。以後の国政選挙には出馬しないと宣言していたのですが、前言を撤回して2000年衆議院議員選挙に東京15区より無所属で出馬、自民公認で自身の後継者であった木村勉氏を破り当選、無所属の会に所属します。しかし2003年衆議院選挙では落選、これにより政界を引退します。政党遍歴を概略すると新自由クラブ→自民党→自由党→自由改革連合→自由連合→自民党→無所属の会と7つの政党を渡り歩いたという不名誉な事実があります。

木村勉(べん)氏について

次に木村勉氏です。1971年江東区議会議員選挙に自民党公認で出馬し当選、当時31歳での最年少当選で区議2期目の途中に辞職し自民党を離党、そして1977年東京都議会議員選挙に新自由クラブ公認で出馬当選します。柿沢弘治氏の系列議員として地元では「KKコンビ」と呼ばれ活動を共にするようになります。しかし1986年新自由クラブ解散により自民党へ復党します。柿沢氏の自民への入党より後のこととなりますが、なぜ自民へ戻る時期に差があったのかを秘書時代に尋ねたことがあり、新自由クラブ公認で衆議院議員選挙に出馬するつもりだったと語っていたのを覚えています。都議として当選回数を重ねて柿沢氏都知事選挙出馬での辞職による1999年衆議院議員補欠選挙に自民公認で東京15区より出馬し当選します。この時に後にご説明します当時、同じく都議であった山﨑孝明氏との密約が行われます。お互いに同じ都議であり自民党同士・同一選挙区にてしのぎを削っていた正に天敵であり、中選挙区時代における自民党同士の仲の悪さは有名ですが、木村氏と室橋昭氏(のちの江東区長)またその後継者である山﨑氏との関係についてはそれがそのまま当てはまると言えます。木村・山﨑両氏は双方の後援会幹部が立ち合いの元、衆議院には木村、後の江東区長には山﨑との約束を結びます。 (両箇所については訂正し取り消します)議員秘書時代に山﨑事務所にあった当時の二人が握手する写真を見たことがありましたが、お互いに腹では笑っていないであろうなと思ったものです。

2000年衆議院議員選挙には柿沢氏に敗れますが2003年衆議院議員選挙にて返り咲きを果たし、2009年の民主党への政権交代する衆議院議員選挙で落選するまで3期務めました。落選後も返り咲きを目指していましたが、次期の自民党東京15区支部長には後に逮捕される秋元司氏が就任することとなり政界を引退します。

山﨑孝明氏について

そして山﨑孝明氏です。山﨑孝太郎元区議会議長を養父に持ち1968年東京都議会議員選挙および1973年同選挙に出馬するが落選、実家である日本そば屋の経営や議員秘書等を経て1983年江東区議会議員選挙に出馬し当選、そして3期目にあたる時に江東区長となる室橋昭氏の後継候補として1991年東京都議会議員補欠選挙に出馬し当選、以後5期連続当選を重ねます。一貫して自民党所属であり、選挙の圧倒的な強さには定評がありました。そして室橋昭・江東区長の後継候補として2007年江東区長選挙に出馬し当選、都議会時代は都議会のドンと呼ばれた内田茂都連幹事長の右腕でありまた石原慎太郎知事とも親しく、東京オリンピックの誘致へ精力的に取組んでいた事を記憶しています。くしくも筆者は2011年の江東区議選に当選し、以後山﨑区政とは議会側のひとりとして関わっていくことになります。2023年江東区長選挙へ立候補表明し5期目を目指していましたが、選挙直前3月末に病院へ緊急搬送され入院、翌4月に死去されました。自民党は急遽、候補者として長男である山﨑一輝都議の擁立を決めます。(次回につづく)(続きを綴るかはペンディングとします)

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